プルタルコスと「口が達者な奴隷」の話

古代ギリシャのヘルメス @kodaigirisyano という方がTwitterへ以下のような投稿をした。

賢者はアンガーマネジメントができるとされていますがその実情は複雑です.口が達者な奴隷がある過失を犯した際に,罰としてプルタルコスは鞭打ちを命じます.すると奴隷は 「あんたは『怒りを抑えることについて』という本を書いてあるじゃないですかぁ」と猛抗議します.プルタルコスの返答は(続く)

https://twitter.com/kodaigirisyano/status/1724245758290121058

プルタルコスは奴隷に「私の表情は変わらず,雑言も吐かず,体を震わせて手を挙げてもいない.そんな私のどこが怒っているように見えるのか?」と尋ねます.さらに「この議論が終わるまで鞭打ちを続ける」ように命じたのです.

アンガーマネジメント成功です😂

https://twitter.com/kodaigirisyano/status/1724246083784847688

この話ですが,出典はゲッリウス『アッティカの夜』第1巻26です.ゲッリウスがプルタルコスの弟子から直接聞いた話なので,かなり信憑性は高いと思われます😂

https://twitter.com/kodaigirisyano/status/1724413273511211141

私にとってこの話は面白いのかどうか微妙だ。「プルタルコスはこういう人だった」ということを伝えるために残された文章だと思われるのだが、 プルタルコスのことも帝政ローマ時代のことも知らない・分からないのでピンとこない。 ただ、読んでいて引っかかる事があったので書き残しておこうと思う。

まず上記の引用から紹介者による「アンガーマネジメント」云々のコメント部分を削除して、元の話を残すようにしてからコメントする。

口が達者な奴隷がある過失を犯した際に,罰としてプルタルコスは鞭打ちを命じます.すると奴隷は「あんたは『怒りを抑えることについて』という本を書いてあるじゃないですかぁ」と猛抗議します.

プルタルコスは奴隷に「私の表情は変わらず,雑言も吐かず,体を震わせて手を挙げてもいない.そんな私のどこが怒っているように見えるのか?」と尋ねます.さらに「この議論が終わるまで鞭打ちを続ける」ように命じたのです.

この話ですが,出典はゲッリウス『アッティカの夜』第1巻26です.ゲッリウスがプルタルコスの弟子から直接聞いた話なので,かなり信憑性は高いと思われます

「口が達者な奴隷」が犯した「ある過失」に対して鞭打ちという刑罰が処されることになった。罰が厳しい事の妥当性についてその奴隷が抗議をする。『怒りを抑えることについて』という本をかいている人が怒りから厳しい罰を科していると。

それに対してプルタルコスは「私の表情は変わらず,雑言も吐かず,体を震わせて手を挙げてもいない.そんな私のどこが怒っているように見えるのか?」と答え、「この議論が終わるまで鞭打ちを続ける」ことを命じた。

たぶんこの話の肝は「私の表情は変わらず,雑言も吐かず,体を震わせて手を挙げてもいない.そんな私のどこが怒っているように見えるのか?」とプルタルコスが言う所だと思う。 プルタルコスには鞭打ちを命ずるに至った経緯の妥当性についてゆるがない自信があるようだ。 また、人が怒っているかどうかを判定するチェックリストみたいなもの?がおそらくあるようで、それに妥当するかどうかで自分自身のことまで含めて判定しているように見える。

こういった一連の経過・過程は現代の日本人である私からすると不自然に感じられる。 ここに私は文化の違いみたいなものを感じ取ったのだが、断片的な話から論を広げてゆくのは危ういので止めておく。

もう一点気づいたことがある。それは「歴史とは勝者の歴史である」という言葉の別の側面だ。 「勝者の歴史」というと権力者が権力に迎合・忖度する学者やジャーナリストに書かせたようなものが典型だと私は思っていたが、違っていたかもしれない。

今回のプルタルコスと奴隷の話を公平に判断しようとするならば、

  • 「口の達者な奴隷」が実際のところどのような人物だったのか
  • そして「ある過失」とはどんな過失だったのか

を具体的に知っているべきだ。しかし、そのような情報は与えられていない。残されているのはほとんどプルタルコスが言ったことばかりである。

これはプルタルコスがそうするように命じたからではない。また、情報源(プルタルコスの弟子)なりこの話を書き残したゲッリウスという人なりそれを引用した古代ギリシャのヘルメスさんなりがプルタルコスに忖度した訳でもないだろう。 要はプルタルコスが多くの人から興味を持たれている人物であり、言ってしまえば物語の主人公だったから起きたことだ。プルタルコスと比べれば彼の奴隷に興味を持つ人は少ない。 そもそもプルタルコスの話でなければこのような恐らくありふれた出来事が書き留められ現代まで伝わるということはなかっただろう。

出来事を直接見聞きした人は双方についていろいろなことを知っていたかもしれないが、 それを人に話すとき・聞いた話を書き残すときに奴隷の言い分や事情について十分な情報を残しておこうと思う人は少ないはずだ。 同様のことが残された本を読んだ人がその話を別の人にする際にも起きる。 結果的にプルタルコスが何を言ったという話が残され、奴隷については話を成り立たせるのに必要な限りしか残らない訳だ。

茂木健一郎『「書く」習慣で脳は本気になる』より

茂木健一郎『「書く」習慣で脳は本気になる なぜ言葉にすると夢は実現するのか』(廣済堂出版, 2019年4月10日 第1版第1刷, ISBN978-4-331-52219-6)

古本屋の棚でこの本の表題を見て、主題の部分に感じるものがあったので手に取ってみた。購入後自分の興味を引いた表題の部分に対応した記述を本文から探した結果見つけたのがこのような箇所だ。

人間の脳は、確実なものと不確実なもののポートフォリオ(組み合わせ)のバランスを取ろうとします。そのときに、確実なものが多ければ、それだけ不確実なものを積み増せることになります。
(中略)
人間は、文字を発明してそれを書いていくことで、脳の外に「文字」という固定点をつくることに成功しました。文字を書いて記憶を固定させていくことで確実なものをどんどん増やしてきたといえます。その分、不確実なものも積み増していくことができました。

(同書 pp.68-70)

実は脳の中の記憶のワーキングメモリーはとても小さな容量しかありません。「勉強した」充実感は一時的に脳に満足を与えますが、それすらも時間がたてば脳はすぐに忘れてしまいます。

(中略)

脳の記憶システムの限界を超えるためには、記録しかありません。記録することだけが本気モードを継続させることに役立つのです。

(同書 p.71)

前提として、茂木健一郎氏はこのように考えている。「人間の脳は我々が思っている以上に怠惰で『楽をしよう、楽をしよう』と思ってしまう」。脳は二十四時間休まずに活動するという意味では働き者だが、それに合わせて体も活動させると体が参ってしまうので、普段はアイドリング状態になっている。「脳が怠けているからこそ人間はリラックスすることも休息することもできる」。しかしそのままでは勉強や仕事で成果を出すことはできない。ではどうすれば怠け者の脳を本気にさせることができるのか。それは「書く」ことを習慣にすることだ。(同書 pp.4-6)と。

「確実なもの」を多く持っている人はその分だけ多くの「不確実なもの」を積み増すことができるという主張について肯定的に感じてはいるが、理解が足りないせいか、よくわからない部分があってモヤモヤしている。とはいえ、書くことで人は経験したこと・考えたこと等の記憶を自分の脳の外に積み増してゆくことができるようになるという指摘については、その通りだと思う。

以下の引用文は上記の議論の流れの中で出てきた話だ。この本に「はてな」とブログが出てきたのは、「はてな」でブログを始めたばかりの私にとっては思わぬことだった。こんな偶然もあるのだなと思ったくらいだ。ここで引用する部分と同じようなことを、私自身もブログを始めるにあたって考えていたことがあるのだ。

はてな」というインターネットの会社の人に聞いたことですが、人事採用するときに、ブログを持っている人がいたら事前にそのブログを見るそうです。ブログを見れば、面接で一〇分ぐらいしゃべるのでは分からないような人間性やその人の活動内容や人柄、スキルまでわかってしまうそうです。

(中略)

そういう意味では、いまやインターネット上でブログを書くということはその人の社会的な評価に直結します。文字を書くことは、自分が書いたものが自分にとってのキャピタルになるということです。

(中略)

逆に言うと、キャピタルのない人は「その日暮らし」になってしまう可能性があります。

(中略)

キャピタルがあるということは、お金があるから生活が楽になるという意味ではありません。それを元手にして、さらに新しいことや、やりたかったことに挑戦することができるということ。自分にどれくらいのキャピタルがあるかによって、新しいことに挑戦するときの幅が狭くも広くもなったりします。

(同書 pp.75-77)

ブログに書き溜めたものは自分や自分の能力そのものではなく自分の活動の結果なので、ブログをキャピタル(資本)に例えるのはしっくりこない。むしろそれは資産と呼ぶべきものではないか。私としては、自分のブログという資産を育ててゆく過程で、資本つまり自分や自分の能力も強化できれば良いなと思っている。

ブログ開設後1か月半の時点で記事はわずかに2つ。私のブログにアクセスしている人は自分自身以外ほぼいない状況だが、記事がある程度たまるまで誰にも宣伝するつもりはない。変に思われるかもしれないが、このようなブログをそのまま誰かに見せるのは自分の中身も貧しく見せるようなものだとも考えてしまったのだ。

YouTube動画「なぜスクールに行っても図面が描けないか?【Jw_cad 使い方.com】」を見て

https://www.youtube.com/watch?v=YMUH8GZzSiI

> mizutori_rokurou
> チャンネル登録者数 2.08万人

> 1,272 回視聴  2022/11/17  Jw_cad 使い方.com
> ITスクールに行ったが、図面が描けるようにならなかた方へ。
> 私の考え、アドバイスを話しました。

かなり昔、パソコン関連の雑誌か何かで「教育目的で作られたプログラミングの課題をいくら教えても現実の問題を解決する力は身につかない」という主旨の文章を読んだ。内容はほとんど忘れてしまったが、今でもたまに思い出す。このYouTube動画のタイトルはその記憶を思い起こさせるものだったので、「プログラミング教育以外の分野でも同じようなことが言われているのか」と興味がわいた。

プログラミングの教育という文脈の中で「現実」がどのように位置づけられているものなのか、プログラミングについて拙いスキルしかない私は実感をもって理解できていない。たぶんこれは、言い換えると「私はプログラミングについてリアルな感覚を有していない」ということなのだろう。今回はCADソフトの授業が仕事に使えるかどうかが主題なのでちょっと話が違うのだが、それでも探ってみると得るものがあった。

まず、動画の内容をまとめてみる

「授業で使った図面は描けるが仕事の図面は描けない」ということはどうして起きるのか?

  1. 引っかかる所が皆違う:
    一人一人について観察しないと生徒が困っている所を講師は気が付かない。それぞれの引っかかる所を直さなければ、いつまでたっても「Jw_CADは難しい」ということになってしまう。
  2. 講師はスクールに時間で雇われているにすぎない:
    今のITスクールの仕組みの中では、講師は決まったことを決められた時間内にこなさなければならないので、生徒一人一人を見ている余裕はない。教えるのが楽なように・トラブルが起きないようにあらかじめ決まったことしか教えない。

それではどうすればよいのか?mizutori_rokurou氏は生徒の操作画面を講師に見てもらって教えてもらうというのが一番だと思っている。なぜなら

  1. 生徒が操作しているところを画面を共有して見ていれば、講師は生徒が引っかかっているところをピンポイントに解決できる。
  2. さらに、便利な使い方があればその場で指摘できる。
  3. 便利な設定も指摘できる(ダウンロードした時のままの設定で使っている方が初心者には結構いる)。

比較のため、このような教え方の短所も指摘している。

  1. 費用が掛かる。
  2. 講師側に負担。(生徒の都合に配慮してレッスンの時間を決めるようなこともしているようだ。)
  3. 少人数にしが対応できない。

オーダーメイドのレッスンをしていると、その人の困っている所をピンポイントで見れる。こういうやり方は選択肢の一つとして良いのではないか。

以上。

CADソフトで作成された「仕事の図面」とは

この動画を見ただけでは「CADの仕事」や「CADで作った仕事の図面」がどのようなものであるのか、私にはわからなかった。動画そのものが「なぜ私は少人数・オーダーメイドでCADを教えているのか?」というような題にした方が良い内容だったので、そうなっても仕方がない面が元からあったかもしれない。またそれ以前の問題として、そもそも私には建築物や機械の設計や製作について基礎知識がないのも原因だった。ここで言われている図面がどんな図面でどのように描かれているものなのか見当がつかなかったからだ。

「仕事の図面」が実際にどのように使われているのか見てみたいのだが、自分が何を知りたいのかを検索エンジンやら他人やらにどう伝えればよいのかわからない。そのためモヤモヤした気持ちを抱えることになってしまったのだが、「とりあえず」ではあるものの問題は意外と簡単に解決した。

所用で外出した時に寄った古書店で見つけた『これで完璧!伝わる建築実施図面の描き方』(建築知識(編), エクスナレッジ, 2014年初版, ISBN978-4-7678-1732-3)という本が良い手がかりとなったのだ。建築関係の実用書を見れば建築現場で使われている図面がどんなものか見ることができるのではないかと思ったのが運よく当たりだったらしい。

そもそも建築実施図面とは何か。ConMaga「建築図面とは何か?種類や作成ポイント・コツを丁寧に解説」( https://conma.jp/conmaga/article/104505/)によると

実施設計図は建築プロジェクトの詳細な設計情報を示す図面であり、建物の具体的な 形状や構造、設備などを明確にするために使用されます。この図面は施工段階に おいて、建築士、エンジニア、施工業者とのやりとりを円滑にし、建物を実際に建設するための指針となります。

とある。そして実施設計図は「意匠図」(建物の外観やデザインを示す)と「構造図」(建物の骨組みや基本的な構造を示す)と「設備図」(建物の設備に関する情報を示す)といった種類に分類され、さらに用途や業務に応じた様々な図面が作られているようだ。(上記文書による。)

引用文での言い回しを借りると、古本屋で見つけたのは、「建物の具体的な形状や構造、設備などを明確にするため使用され」る図面についての実務的なあれこれが書かれた本だった。基本的なことから体系的にまとめられているという本ではなかったので、知識のない私には内容がほとんど分からなかった。その反面、図面をめぐって関係者がやり取りをしている有様が想像できる作り方がされてあり、参考になった。(ちなみにこの本は『建築知識』という雑誌の特集記事2回分を加筆修正してまとめたものだそうだ。)

建築実施図面を作成する前の設計段階においても様々な図面を作成しなければならないであろうことを考えると、CADオペレーターと呼ばれる人々が必要とされる理由がわかるし、その人たちが建築プロジェクトの中でどのように働いているであろうかも見当がつく。(上記の本にCADオペレーターは出てこなかったようだが、そういうことも想像できる。)業務内容にも依るかもしれないが、多くの建築図面はデータエントリー的な一方通行の手順ではおそらく作れない。それどころかCADオペレーターはアシスタント的な業務ができなければ一人前とは呼べないのではないか。発注者からの指示といくらかの資料(データ?)と前提知識を元にたたき台となる図面を描き、そこから納品できる段階に至るまでのいろいろなやり取り(追加訂正や設計変更など)をこなすという感じで仕事ができなければ、発注者側としては安心して任せられないのではないかと想像したのだ。

最後に

ここまで来てようやくCADで作った図面について、初心者以前のレベルではあるものの、現実に触れることができた気がする。プログラミングにしろCADソフトによる図面作成にしろ、この、「現実に触れる」という体験を学習過程のどこかで得られるかどうかは大きな差がつく要因となりうると思った。だからこれからは何かを学ぶにあたってはこのことを忘れないようにしよう。

以上の考察は個人的には実りあるものだったが、この文章自体は「議論が空振りしている」と言われもしかたないものになってしまった。ここまで私は「仕事」という言葉に「現実」を重ねてきたが、なぜそうするのか説明できていないのはまずかったような気がする。プログラミングの教育の文脈で言われた「現実」は、おそらく、日本語の「現実」ではなく英語の「Real World」という言葉で元は議論されていたものだろう。そして「Real World」は「リアルな世界」と言い換えられるはず。ならば「リアルな世界の問題」とはどういうものになるのだろうか。というあたりまで私が分かっていれば、もう少し人に伝わる文章が書けたように思われるのだ。これについては日を改めて挑戦してみたい。

「このブログについて」の補足(またはブログの最初の一歩)

10月1日にこのブログを作成してから1週間以上経ちました。気が付いてみると今まで何も投稿していません。社会人でありながら引きこもりみたいなことを長年続けていたために、何もしないことに慣れすぎていたのかもしれません。

しかし「中途半端でやりたいことが形になっていないブログ」にはしたくないので、これからはそれなりの手間をかけて続けてゆくつもりです。どうぞよろしくお願いします。

さて私は「このブログについて」で「今年の春に母を亡くして一人暮らしになりました。来年の春には約30年勤めた会社を退職することにもなりました。こうして私の生活は否応なしに変わってゆく訳ですが、変化するよりも先に始めておきたいことがあります。」と書きました。そのような人間としてこのブログでどんな記事を書こうとしているのか、以下にメモしておこうと思います。

業務の引継ぎについての話

とある会社にて、私は「パソコン担当」のような仕事をしています。仕事の一環として、例えばデータの変換や集計・ファイルのダウンロードといった作業を継続的に行っているのですが、その際にExcelや各種ツール(nmakeやgawkUWSC等)を使っています。

しかしここで私が退職すると、ツール類になじみのある人が同じ部門内にいないため、私がやってきた作業のいくつかは昔ながらの手作業に戻るとか引き継がれないといったことになるかもしれません。

そこで、このような事例については自分が何らかの手当てをしておくべきだと考えました。さらに、せっかくだから差し支えない範囲内でその話を書き残しておこうとも思った次第です。

例えばExcel上で作業すれば代替えできそうな作業があれば、その手順について調べたり試したりしておくといった感じです。

なお、私が去った後は新しい体制と新しいシステムの下での管理運用が始まるので、でしゃばるつもりはありません。あくまでも好ましくない事態を避けるための予防的な措置として考えています。

新しいことを学び始めること・あるいは以前学んだことを学びなおすことについての話

退職後の仕事やお金のことなど心配はありますが、後述するような理由から、まずは 自分がどこまで新しい状況に対応し学んでゆけるのかを確かめることが先決だと考え、 このブログのテーマのひとつとすることにしました。

これはたとえ話のようなものなのですが、私は折り紙が苦手で、鶴を折ることができません。 ある時折り紙の本を見ながら、書いてある通りの手順に従って鶴を折ったことがあります。 人によってはそれが達成感につながり、更なる練習にいそしんで折り紙が上手になっていったことでしょうが、 私は訳が分からないまま紙を折ったことが不満であり腑に落ちない感覚もあったため、 達成感のようなものは希薄でした。 その時は2回くらい折ったような記憶があるのですが、それきりで終わり、結局折り方は身に付きませんでした。

しかし仮に鶴を折ることが真剣に対応すべき事柄であると意味づけられており折ることが日課にもなっていたとしたら、 折り紙が苦手でおそらくめんどくさい性格の持ち主である私であったとしても、 比較的短期間で手順を覚えてしまうのではないかと思われます。 さらに個々のもしくは一連の折り方の意味(こうすることによって何をしているのかについての理解等)が 深まれば、鶴にとどまらずいろいろなことができるようになっていることでしょう。

同様のことは私が現在の本業としているパソコン関係の作業にもあります。 Word, Excelを初めて触った時に感じた腑に落ちない感覚、業務で使ったことのあるプログラミング言語 (PerlVBScriptUWSC)が初心者レベルにとどまってしまったこと、など。

大げさに言えば私は人生のリスクに触れようとしているので、 日常の生活も意識的・無意識的にそれに影響されつつあることでしょう。 長年さぼってきた分つらいものになるかもしれませんが、 今こそが自分を試すことを始める時期なのではないかと思います。 ちなみにめんどくさい性格は直せないと考えて行動します。